情報 問題点


 このページでは現在の銀塩写真のかかえる問題点など日ごろ感じていることをダラダラとマトマリなく 記述していくつもりです。

気に食わない内容もあると思いますが、自己満足で書いてますので、適当に流して下さい。



もくじ

地下鉄サリン事件の影響
環境問題のこと
デジカメのこと
なぜオートフォーカスを使わないか
ポートレート撮影は難しい?
撮影会について
写真に芸術性があるか?


地下鉄サリン事件の影響

 現在、コダックの業務用のペーパー処理液を使用してますが、深タンク処理をはじめようと考えていた当初は フジフィルムの業務用の処理液を使うつもりでいました。機材も含め、「メイド・イン・ジャパン」主義なのです。 深タンクシステムを作り、フジの処理液を買おうとヨドバシカメラ(横浜店)に行ったら、ナント処理液 がない。つい一週間ほど前まではあったのに。店員に聞いてみたところ、「フジフィルムの業務用の処理液はもう販売しない」 というのは「オウム真理教の地下鉄サリン事件の影響で写真関係の処理液の販売がウルサクなったことが原因」 とか。そう、僕が深タンク処理を始めようとした年(1995年)にその事件は起ったのでした。 この事件の前に、同じくオウムの犯行で「松本サリン事件(だったか?)」があり、この時の第一発見者 が容疑者扱いされ問題になりましたよネ。この第一発見者も写真が趣味で自宅に写真関係の薬品が置いてあったとか (記憶違いだったらゴメンナサイ)。
 さて、その処理液、ホビー用ならあるけど液を大量に使う深タンクではお話にならない。 フジフィルムの処理液しか知らなかったので、もう目の前真っ暗!ショックでこの日はあきらめて帰りましたが どうしても深タンクがあきらめ切れず再度ヨドバシに行き、他のメーカーで業務用の処理液 (発色現像液と漂白定着液が別々に購入でき、使用量の多いもの)がないか聞いてみたところコダック の処理液を紹介してくれて、かつ、在庫もあるとのこと。ヘッ?あるの?先日のショクが大きかった だけにあまりのトントン拍子にキョトンとしてしまいました。だったら先日に言ってヨ。 「フジのがなくなったのに、なぜコダックのはなくならないのか」ツッコンデ聞いてみたところ、 どうやら国際政治ガラミみたいですネ。日本は外国の圧力(特に欧米の)に弱いから、内部事情(オウム関連事件) で外国製品を締め出せないンでしょうネ。以上、間違ってたらゴメンナサイ。
 写真活動を通して、犯罪事件と国際事情を感じることができ、写真活動という個人の趣味も トテモ不安定な基盤の上に乗っているもので、なにかあったらイッカンの終わり、と痛感したシダイです。


環境問題のこと

 今、銀塩写真活動はとてもヤバイ状況にあると思います。原因は2つあって、ひとつは最近ハヤリの 環境問題であり、もうひとつがデジカメの台頭です。
 銀塩写真活動では「フィルムとペーパーの現像」という作業が必要で、そこで処理液の廃液が出ます。 この処理液の中に毒物だか劇物があるようで(モチロン入っていないものもあるようです。詳しくは知りません)、これが環境上よろしくない。 今までは薄めて下水に流してたようですが、それでは確かに問題といえば問題ですネ。
 でも、ナゼ「今」環境なの?環境、環境とギャーギャー騒ぐ必要があるのは「今」? 違いますよネ。思うに、一番環境が問題になったのは(本当の意味で) 1970年代ではなかったのではないですか? 僕はこの年代をよく覚えている。僕はこの時小学生で「川崎」に住んでいました。「光化学スモック 注意報」で校庭に出られなかったこともよくあった。海では「ヘドロ」が発生し、「ゴジラ対ヘドラ」なんて映画もあった (怪獣映画が好きだったので観ました)。「川崎」という公害の中心地?に住んでいたので子供ながら公害 にはソレナリニ問題意識は持っていました。その時、公害による実害はあったけれど民間レベルでの運動 というのは、少なくとも僕の記憶には、あまりなかった。
 さて、今、公害を身近に感じることがあるのでしょうか?「ない」でしょう?「ない」ンです。 今の環境騒ぎは「今実害があるから問題視している」のではなく、「将来実害がでると考えられるから問題視している」 のです、よネ?それを悪いとはいいませんが、それにしチャ〜チョット「ヒステリック」過ぎませんか? といいたいです。そんなことは70年代に行ってやってよ!今やらないデ! あるいは(タブン間違い無い)、今の環境問題は、 ある必要から生じたものではなく、一種のハヤリ・ブーム程度なンじゃないか、そんな気がしてならないです。

 真偽ノホドはどうか分からないけど、どちらにしろ、深タンクなら廃液は出ないので心配ないのだけど。


デジカメのこと

 銀塩写真活動を脅かすもうひとつの要因がデジカメの台頭です。この流れは環境問題と違って一時の ハヤリ・ブームなんてものではなく、技術革新がもたらした必然的な流れです。だから、ある意味、 環境問題より脅威です。この流れ、無視しようとするのはオロカなことで、 その流れの中に身をまかせるしかないです。なんてったって、銀塩写真だって技術革新の産物で、かつて絵画の地位を 脅かしたのだから。
 さて、僕もしっかりデジカメを利用しています。といってもメイン機材としてではなく、 サブ機材・ポラ撮りの代りとして使用してます。 デジカメの良いところはタイムリーな点ですネ。撮ったその場ですぐに結果が見れる。 それと、ランニング・コストがかからないこと。 この2つの利点を利用して、ストロボ撮影時の光の回り具合のチェックを行っています。 デジカメを買う前はポラロイド撮影で行っていましたが、正直、デジカメにはかなわないです。
 そんな便利なデジカメですが、メイン機材としては使う気にはなれないです。 理由は2つあって、135フィルムなら対等かもしれないけどブローニーならまだ銀塩にブがある、 と思う(弱い!)から。もうひとつが、こちらが主なンだけど、銀塩写真の作品ができるまでのその プロセスが好きです(そんな感傷的な表現しかできないのがナサケない)。
 いずれは僕のこんな抵抗も通じなくなるンでしょうネ。LPがCDにトッテ代ったように、 銀塩写真もデジカメに飲み込まれるのでしょう(既にそうなってる?)。あるいは、そうなってほしいのだけど、 アナログ時計とデジタル時計の関係のように、上手く共存していくのかもしれない。 この先銀塩写真がどうなるかは、騒いでドウコウできる問題ではなく、あたり前すぎる言い方だけど、 「ナルヨウニシカナラナイ」。


なぜオートフォーカスを使わないか

 今では小型カメラはニコンのボディにマニュアルレンズを装着して撮影していますが、 写真をはじめたばかりの時は キャノンのEOS(100、5)でオートフォーカスを使って撮影していました。 当時はモデル撮影会での撮影が主で、モデルをモードラでガシャガシャ撮っていたのですが、実は 万能のように思われているオートフォーカス・カメラは ガシャガシャと連写するのはトテモ不便なのです。 理由は「フォーカス・エリアが固定されている」ことです。 フォーカス・エリアが固定されているため フォーカス・ロックを使って、思ったような構図になるよう、 ファインダー内で被写体を動かします。 モードラの動きに合わせて、その度カメラを上下(左右)させなければならないわけです。 これではメンドクサイし、構図を安定させるのが難しいですよネ。 1枚2枚撮るならともかく、連写の場合、むしろオートフォーカスを外したほうが撮りやすい。

 そういう訳でオートフォーカスを使わなくなったのですが、情けない事に、ピンボケが多くなりました。 成功6割、失敗=ピンボケ4割といったところでしょうか。やはりプロにはなれンな...


ポートレート撮影は難しい?

 「ポートレート撮影は難しいか?」実に、恐ろしい問いです。ヘタなこと書いたら袋ダタキです。 や、やめよかな。でも書きたい...書いちゃおう。僕のHPだ。
 結果から書くと「技術的には簡単である」(書いちゃった)。なぜなら「被写体(モデル)の大きさがほぼ同じであるから」 ということは「使われるレンズがある程度限られる」から。それと「被写体の数が最も多い撮影である」から。 つまり、「被写体(モデル)を見つけるのがとても簡単である」から。なんてったって日本人の数だけでも1億人以上おり、 外に出るだけでモデルになりそうな人(女性に限ってませんヨ)がゴロゴロいますよネ。 こんなに簡単に被写体の見つかる撮影は他にないでしょ?
 では、簡単だからスラスラ撮れるか、というとそうではない。「技術的には簡単」なポートレート撮影 は、他面では「最も難しい撮影」なのです。その他面とは、「心理的側面」です。 特に異性を被写体とする場合、そこに心理的葛藤が生じます。 誰だって異性に対し、憧れと恐れ、が共生してますよネ。写真を撮りたいけど、罪悪感で撮れない、 モデルを断られるのが怖くて声をかけられない。被写体が目の前にあり、撮りたいという気持ちも強くある、 でも心にブレーキがかかってしまう。そんな撮影って他にあります? だから撮影会に通うことになるわけです、よネ?
 反対に、男なら、「女の子を撮っている」などと聞かされれば、イヤな気になるでしょう? 「手に入れたいけどできない」そういうものを他人がイトモ簡単に手に入れるのを見たとき、 人間は嫉妬するのです。 「俺はそんなことナイサ」などと言うかもしれないけど、それは表面上だけで、確実に 心の奥底では嫉妬心が働いているはずです(なんか心理学講義みたいになってきたナ〜)。
 最近、某カメラ雑誌に「魚返一真」氏の特集があった。氏は女性を被写体とするプロのカメラマンなのだけど、 氏の特徴はプロのモデルだはなく、街で見つけた素人の女の子を被写体としていること。 もちろんスナップではなく断ってから撮っており、信じられないことに、メイッパイ肌を露出させて撮影している。 素人の女の子がですヨ。 氏の写真を見たとき、正直、僕は、とても、嫉妬した。コイツ!と思った。 これは僕が特殊なのではなく、誰でも同じだと思う。
 「ポートレートを撮っている」と他人に言う時は、相手は心の奥底では快く思っていない、 そう覚悟すべきでしょう。


撮影会について

 上述「ポートレート撮影は難しいか?」の理由から、人物を撮影することには様々なナンクセがつけられます。 その中に「スナップショットは正しい行為か?」というのがあります。日常のナニゲナイ仕草を写真にするために 撮影の許可なく撮る必要があります。「肖像権があるのだからそれはイカン」というのが否定派の意見です。 難しい問題ですネ。個人的には必ず断ってから撮ってます。だから「日常のナニゲナイ仕草」を得る事は 出来ず、「ニコパチ」(で良かったか?)写真になってしまいます。ではスナップショットを否定している のか、というと必ずしもそうではない。僕なりのボーダーラインがあってそれを超えなきゃ良いと思っている のだけど、今回はそれについては触れません。
 それなら「断ってから撮れば社会的に容認されるのか」というとオモシロイことにそうでもない。 断ってから撮った写真でも「これはイカン」という意見が出るのです。 「撮影会の撮影はイカン」というのもそうです。「講師がセッティングした状況で撮影しても撮影技術は 上達しない」というのが理由のようです。この意見をもってして「撮影会の撮影はイカン」というのは ヒドイと思う。僕も撮影会には度々行くのでシッカリ弁護します。 そもそも、撮影技術を上達させようとして撮影会に行くわけではない。 キレイな女の子の写真を撮りたい、から撮影会に行くわけです。 アマチュアなんだから、撮影技術の上達ウンヌン、なんてどうでも良い。 撮影会なら、心理的葛藤ウンヌン、肖像権ウンヌン、といったウザッタイことを考えずに伸び伸びと 撮影に没頭できるのだから。ただし僕の場合「伸び伸びと撮影に没頭」し過ぎてモデルを独り占め してしまい、度々他のカメラマンに迷惑かけてしまいます。これはイカンです。 ゴメンナサイ。反省してます。
 ネイチャー(自然風景)の撮影会というのもありますが、そちらを否定する意見を聞いたことがない。 不服である。


写真に芸術性があるか?

 僕にとって、芸術といえば「絵画」です。では、芸術とは何か?とても定義しづらいですが、 強いて言うなら「自由」でしょうか。絵画は自由度が大きく、それだけ芸術度も大きいと思っています。 「自由なら簡単じゃないか」と思うかもしれませんが、実を言うとマッタクの自由の元では人間は 何をすべきか決められないものなのです。ある程度拘束されていた方が楽、ということが多いはずです。 写実的な絵画というのは「現実」という拘束があります。だから芸実性としては低いのではないかと 勝手に思っています。
 さて、写真に芸術性=自由があるでしょうか?「あるかもしれないが、芸術度=自由度は低い」 というのが僕の考えです(あくまで僕個人の意見ですヨ)。 というのは「写真というのは精密工学と光学と化学の産物である」からです。 拘束条件が多過ぎる=自由度が少な過ぎる。 それらの巨大な拘束物の隙間の中にしか写真に自由を求められる領域はない。 具体的に言えば、せいぜい撮影時の構図程度ではないですか? 後はシステマチックに製作されるだけです。 「覆い焼きや焼き込みがあるじゃないか!」という意見もあると思います。 でも、個人的意見を言わせてもらえば(個人的意見しか言っていないか) 「写真の本質はひとつのネガから同じ写真ができる」ことにあるのだから、 覆い焼きや焼き込みという作業には反対です。そいう作業は撮影時にプリント完成時の作品を予想し、 照明を設定すべき問題ではないのですか?難しそうなので僕には出来ませんが。 撮影時の像をアリノママに具像にすることが写真に与えられた使命であり、写真が写真である由縁です。 べつに自虐的に言っているのではなく、写真というのはその様な物であり、それ以上の物ではない。 写真にタズサワル者は、その立場に満足すべきであり、その立場は充分誇りを持てるものだと思います。

 以上、お怒りを感じる方が多いだろうと思われるお話でした。


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